共感覚と宮沢賢治

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朗読から色のついた丸のつらなりが生じる共感覚

「わたしはだんだんわたしになる うまく話せない子どもの頭の中」より

朗読から色のついた丸のつらなりが生じる共感覚は、幼稚園の年少のころまでありました。
詳しくは「わたしはだんだんわたしになる うまく話せない子どもの頭の中」で描いています。

今思い返してみても「あれはキレイだったなぁ」とうっとりするのですが、
あの共感覚があったおかげでひどい目にあいました。
色のついた丸のつらなりにうっとりしていると、話の内容が頭に入らないのです。

大人が「このお話どうだった?」と聞いても、
色のついた丸のつらなりのイメージのほうが強烈に頭に残っていて、
感想が言えずに無言のままの幼稚園児でした。

大人は「この子には難しかったかな?」くらいに思っていたことでしょう。

言葉が出ない=知的な遅れがある

このように考えて子どもと向き合う大人が多いのだろうと思いますが、
実際はそんなに単純ではないのですよ。

私みたいな子どもも混じっているはず。

朗読が色のついた丸のつらなりのイメージに変換される共感覚はさらにつらい状況を生みました。
幼稚園児の時点で、言葉がルールを持って並んでいる、つまり「文法」に気づいてしまったのです。

大人に対して「文法」を守って話したい
ダメな子じゃないことを証明したい

そう思うあまり、ますます言葉が出にくくなるという状態に陥りました。

私は基本、コミックエッセイ(実録漫画)を描いていますが
「わたしはだんだんわたしになる うまく話せない子どもの頭の中」は
【あっこ】がしゃべっている言葉はすべて事実から由来していますが、
周りにいる友人は複数の友人を一人のキャラにまとめてしゃべらせる、とか、
【あっこ】の言葉を客観視したとき、どんな意見が他者から発せられるかを想定して、
それを友人たちにセリフとして言わせる、といった方法をとっています。

幼いころにうまく話せなかった理由をコミックエッセイにしようとすると、
説明の部分が多すぎてしまいます。
そんなコミックエッセイを読みたいかと自分に問うたなら、
答えは「ノー」だったものですから、
読者がテレビのトークショーを観るようなイメージで読めたらいいなぁと思い、
コミックエッセイではない形式をとりました。

ぜひ、お読みください!

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