パクリ?うさぎのみみちゃんの漫画とakkoの漫画が酷似している件

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これはパクりなのか?

結論から言うと、疑わしいものの断言できない。
だから、少しばかりカマトトぶって
「ここまで同じことを考える方がいるんだと驚いてます!」
と当のスレッドに書き込みしたものの、特に反応はなし(笑)
私も自分のところに何度も何度もねちっこくコメントを書かれるのはウンザリするので、
思うところは自分のブログに書くことにした。

私はネット上のパクりネタはよく見るほう。
アニメのエンデングに振付を無断で使用されていたケースとか
美人銭湯絵師がイベントで描いた絵がイラストレーターの絵にそっくりだったケースとか。。。

なぜパクりネタを見るかというと、
パクる方もパクられる方も、
パクりというものにかかわる・巻き込まれることで、
その人の本質みたいなものが見え隠れする。
そこが面白いのだ。

さまざまなパクりを鑑賞してきたので、
パクりについては
酒を酌み交わしながら数時間語れる勢いの私だけれど
今回のケースを私がパクりだと判断するのは難しいと思ったわけで。

今回の類似のケースはこれ
http://fullopen.blog.jp/archives/13616916.html

故 琴葉とこが描いた『メンヘラちゃん』と酷似した内容の漫画が、
伊藤素晴の『メンヘラちゃん』に掲載されていたケース。
伊藤素晴の『メンヘラちゃん』はのちに『 今日もかるく絶望しています。』とタイトルを変え、書籍出版。
ネットでパクりと指摘されていた部分は書籍で削除されずに、
セリフを少し変える程度で掲載されているそう。


第三者から見ると、どう見てもパクりでしかない けれど、
このケースはパクった側が言い逃れできてしまう。

メンヘラちゃんの特性というものは似ているものだ。
だから「あるあるネタ」としてこうした漫画が読者に受け入れられる。
自己肯定感がある人の特性も似ている
自己肯定感がある人は自己肯定感という言葉や概念に興味がない。

だから
「カブトムシは成虫になる前にさなぎになります」
という生態についての事実を私が漫画にしたとして、
他の人が
「カブトムシは成虫になる前にさなぎになります」
という漫画を描いたら、
「パクリだ!」とは言えないのはお分かりいただけるかと思う。

伊藤素晴 の漫画がパクりを疑われながらも、
タイトルを変えて出版できてしまったのは、
「特性は似てしまうものだ」という言い逃れができてしまったからかもしれない。

しかしながら、
うさぎのみみちゃんが描いた漫画と
私の漫画とでは起承転結が同じだ。

起→自己肯定感がある女の子の説明
承→自己肯定感がない自分から自己肯定感がある子への問いかけ
転→「自己肯定感って何?」というセリフ
結→自己肯定感がある人は自己肯定感を意識しないのだ、と納得する自分

構成がここまで似ることってあるだろうか?
自己肯定感がある人への解釈がここまで似ることってあるだろうか?

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